そらごよみ
九月望月餅つきうさぎ
「はぁ!?」
響いた。それはこれ以上ないほどに。素っ頓狂で間抜けな声と、コーヒーカップと机の悲鳴が、夕日に照らされて茜色に染め上げられた店内に。
大通りから少し外れた喫茶店の中。学生服の上にエプロンをつけたボーイッシュな少女が、それはそれは顔を真っ赤にして立ち上がっていた。その少女の目の前には、茶髪の少年と少し髪の長い少年の姿。
「早紀、落ち着いて。そして受け入れてくれないかな」
茶髪の少年がエプロンの少女に諭(さと)すように語りかける。しかしその口と言葉との端には、多分に笑いが含まれていた。もう一方の少年は、声を上げないように苦労しながら笑いを堪えている。
そんな彼らの様子にぷるぷる震えながら、早紀がなかばヒステリックに叫ぶ。
「これが落ち着いてられるかっ! 涼平、他人事だと思ってるでしょ!?」
「うん。もちろん」
茶髪の少年、涼平が、当然だと言いたげに応えた。
「それに直人、キミはキミで笑いすぎだよ!? そんなに苦しいなら声を出して笑えばいいじゃないか!」
「いや、だって、想像したら、アンバランスなのに、似合いすぎてて......」
長めの髪の少年、直人が、息も絶(た)え絶(だ)えに応える。どうやら彼が笑いのツボから抜け出すのはまだ先のようだ。
言いたい事を言うだけ言って、早紀はひとつため息をついた。諦めと呆れが混じった複雑な表情で、カウンター席に腰掛ける。
「今日のホームルームで、文化祭で喫茶店やるって決まったのは聞いてたよ。だけど、メイド喫茶だなんて想像してなかったじゃんか......」
苦虫を噛み潰したような顔で目を伏せる。
「ホームルーム前のバスケで、捻挫(ねんざ)しちゃったもんな。保健室行ってて、ホームルーム戻ってこれなかったのは残念だったね」
意地悪に涼平が傷口をえぐる。ぐっ、と早紀は呻いた。
事の顛末はこうだ。
今日のホームルームで、二週間後に控えた文化祭の出し物を決めることになった。とはいっても、三年生は全てのクラスで喫茶店や屋台などの「サービスによってお金が動く」出し物をするのが毎年の恒例だ。自分の身で仕入れや在庫などの計算や接客をすることで、お金を得ることの難しさや、協力して何かをやり遂げるという事などを感じて欲しいと、数年前の生徒会長が始めた企画らしい。とにかく、今年は早紀たちの番だった。
数ある業種の中から、早紀たちのクラスは喫茶店を選んだ。理由は簡単だ。現役の喫茶店の看板娘や、そこで本格的にコーヒーの作法を習っているクラスメイトがいるのだから。もちろん、早紀も喫茶店になればいいな、と思っていたのだ。
だけれども。自体はそれだけで終わらない。
あまりにあっさり決まってしまったものだから、何か変わった趣(おもむき)でやりたいと意見が出てきたのだ。例えば――そう、例えば「メイド喫茶」や「執事喫茶」のような。突拍子もない意見だった。しかし、巷(ちまた)で流行りだした「萌え文化」の影響か、その突飛なアイディアは割とすんなりとクラス全体に受け入れられた。受け入れられてしまったのだ。早紀がその場に居たなら、クラス全部を敵に回しても反対していただろう。しかし、早紀は残念ながらこの場には居なかった。ホームルームの前の授業――体育のバスケットで捻挫してしまい、ちょうどこの時間、保健室で手当てをしてもらっていたのだ。クーラーがよく効いた室内がバスケ後の火照った体にとても心地よくて、長居してしまったのも失敗だった。
また、カウンター席にため息ひとつ。
そんな早紀の目の前に、すっとカップが差し出された。甘い香りの、クリーミーカフェオレ。早紀は何も言わずに口を含んだ。心地よい甘さが口の中に満たされる。顔を上げると、カウンターの中に直人の姿。
「......キミだと思ったよ」
「よくわかるな。少し甘めに作ってみたつもりなんだけれども」
苦笑いする直人に、早紀が突っ込みを入れる。
「ちょっと濃い目にドリップするの、キミの癖だもん。お父さんから教えてもらった抽出時間より、ちょっと長めにしてるでしょ」
「さすが、よく分かるな......。で、落ち着いた?」
「ん。おかげさまで」
カウンターの中から出てくる直人を目で見送りながら、彼女はカフェオレを飲み干した。ナプキンで口を拭いて、涼平と直人のほうに向き直ると、
「で、わたしは何をすればいい?」
にこやかに言い放った。早紀の切り替えの早さは伊達ではない。幼稚園の頃からこの二人の少年と接してきた彼女だ。長年の経験からこの技術が身についてきていた。
「それでこそ、早紀だね。難しいことなんて全然ないよ。当日までに女子に接客の基本とか教えてくれればいい。当日もメイド服着て接客やってくれれば何も問題ないからさ」
説明する涼平を横目にみていた直人が、心底感心してつぶやいた。
「涼平に催し物やイベントの指示や手回しをやらせたら、右に出るものは居ないな」
「任せてよ。自分が楽しい事はとことん追求する性質(タチ)だからね。早紀、分かったかな?」
「うん、大丈夫。任せて」
今度は胸を張って、早紀は応えた。
「任せたよ。じゃぁ、そろそろ僕らは帰るね。詳しい話は明日学校で話すよ」
荷物をまとめて、席を立つ涼平。
「わかったよ。また明日、学校でね」
出口まで見送る早紀。
「じゃぁな、また明日。マスター、ご馳走様」
直人もそれに続く。さりげなくテーブルの端にお金を置いて。
見送りついでに、早紀は店内からちらりと外の様子を伺った。見上げた秋の空は、ほんの少しの間にがらりと表情を変えていた。「秋の夜はつるべ落とし」とはよく言ったものだ。ぼんやりとそう思った。
「あぁ、そうだ」
扉を閉める瞬間に、涼平が口を開いた。にやり、と口の端をゆがめて。
「メイド服、楽しみにしてるよ。バスケットのあの場面で、あのコースのパスを通すの、マジ難しかったんだから」
突然言われて、何のことか分からずに早紀は一瞬だけ呆(ほう)けてしまったが、
「り、涼平! もしかして、あれ、わざとなの!?」
はっ、と気づいて、確信にも似た疑問をぶつけたけれども、時すでに遅く。少年たちの姿はもう、店内からは消えていて。ドアにぶら下がるベルだけが、空虚な音を響かせて存在を主張していた。
早紀がバスケットで捻挫した原因は、無理な姿勢でパスを捕ったからだった。球技が得意なはずの涼平が投げた、少しだけ見当違いのコースで飛んできたパスを。
長崎県玖島市。二つのキャンパスを持つ県立高校がある。県立玖島高等学校というのが、それだ。国道三十四号線を挟むように位置する二つのキャンパスは、もともと二つの高校が一つになったという歴史をその姿で示している。六年前の北部九州一帯を巻き込んだ戦争の影響で、生徒数や学校の運営予算が減少し、統合せざるを得なかったのだ。
しかし、そんなことはどこ吹く風で、玖島高校の本校舎がある玖城キャンパスは今日も夏の終わりを感じさせる太陽に照らされ、校舎を輝かせていた。
さて。
早岐司は驚いていた。その光景の異様さに。
司は優等生ではない。むしろ教員に頭痛のタネを植えつけるほうの生徒だ。授業にはほとんど顔なんか出さないで、保健室や屋上で時間をつぶしたり街に繰り出したりしている。そんな司が、最近サボりがちだったから顔を出しておこうか、と久しぶりに教室のドアから中の様子を覗いた瞬間、固まってしまった。
メイドだ。メイドがいる。
教室の中はすでに文化祭に向けて喫茶店風の落ち着いた雰囲気の装飾が施されていて、その中でクラスの女子たちがメイド服やウェイトレスの制服を試着している最中だった。
司ははっと我に返ると、この状況を把握し始めた。そういえば今週末は文化祭だったっけ。となると、先週のホームルームあたりで喫茶店に決まったんだろう。しかし、こんなけったいな格好は無いだろうに――
「お、司か。久しぶり」
呼ばれて司は振り向いた。そこにはびしっとスーツと眼鏡で決めた涼平と、「岬の小屋」のマスターがいつも愛用している服を着た直人。
「やぁ、涼平に直人。よく似合ってるね。直人が着てるのはマスターの服かい?」
「あぁ。いい機会だからって、マスターにお下がりで貰ったやつなんだ」
少し誇らしげに胸を張る直人。
「本当に似合ってるよ。で、涼平って、目、悪かったっけ?」
「あ、これは伊達(だて)だよ。なんでも、スーツに眼鏡は最強らしいから」
ふーん、と司は聞き流した。どうも涼平は、時々よくわからないことを言う。
「それで、これは何の仮装パーティなのかな? ハロウィンにはまだ早いと思うんだけども」
司は、教室の中を指差した。中にはたくさんのメイドたち。その困惑しきった彼女の様子に、涼平が笑う。
「どうやら着替えはもう終わったみたいだね。今度の文化祭、うちらはメイド喫茶やることに決まったから」
「......ふーん?」
嫌な予感がする。司は必死に冷静を装って応えたが、その声は震えていた。
「もちろん、司にも着てもらうからね?」
涼平のとどめの一言。そして、司の嫌な予感は残念ながら的中した。
喫茶店という方針はいいさ。直人のコーヒーはマスターに比べるとまだまだだけれども、そこら辺に居る、コーヒーのことなんか何も分かっちゃいないやつが淹れた泥水よりは何十倍も美味しいし、幸せな気分になるには充分だ。だけれども。あんな、あんなひらひらしたもの着て、接客なんか出来るかこのやろう。
そんな考えが司の頭の中をぐるぐる回る。
「ほら、メイド服を試着しなきゃ!」
考え込んだ隙を突いて、涼平は司を教室の中に無理やり押し込んだ。
「あ! 司じゃん。ちょうど良かったね、今、衣装のサイズ合わせしてるんだ。サイズはMでよかったよね?」
早速、早紀に発見されてまくし立てられた。いや、その、と弁解を試みるも、その手際の良さに断念せざるを得なかった。わずか五分で、無愛想なメイドがひとり、誕生した。
「やってられないよ」
「つ、司ちゃん......」
無愛想なメイドの生誕からわずか三十分。養護教諭の楠本葉月(くすもとはづき)は、乱暴に開け放たれたままだったこの保健室のドアを閉めながら、机に突っ伏して唸っている女子生徒の様子に苦笑していた。部屋の奥には、我が物顔でベッドを占拠しているメイド服。
司は激怒していた。心無いクラスメイトに。不甲斐ない自分に。
話は少し前に遡る。
試着の後、そのまま早紀による接客セミナーが開かれた。司は不本意ながらも流されるままに講習を受けていた。もう格好については何も言うまい。接客ぐらいは、こなしてみせるさ。そんな自負があった。実際、メニューや器の出し方、片付け方、掃除、どれもそつなくこなしていた。だけれども、早紀が困った顔で笑った。
「笑顔が硬いなぁ。もっとにこやかな笑顔が見たいな」
ぐ、と詰まってしまう。自分自身でも、笑顔は苦手だと承知している。
「そんなものを私に要求するんじゃないよ」
司はぶっきらぼうに言い返した。冗談と笑いのエッセンスを隠し味に。司と早紀の付き合いは長い。だから、司が笑顔が苦手なことも、冗談さえもぶっきらぼうに言い返す癖も、早紀は充分に承知していた。
しかし。周りが冗談を理解し得なかった。
「ちょっと、そんな言い方ないんじゃないの? 一生懸命やってる和泉(いずみ)さんに失礼よ」
いきなりのヒステリックで非難めいた声に、司は思わず振り返る。メイド達が眉間に皺を寄せ、腕を組んでいた。あぁ、佐藤(さとう)のグループか。ガッキュウイインはうるさいな、もう。いちいち口を挟まないでくれ。
「はぁ。何か悪いことでもしちゃったのかな、私? それとも、ただあんたの癇に障っただけ?」
司は眉を片方だけ上げて、皮肉いっぱいに笑ってやった。途端に目の前のメイドの顔が真っ赤になって、
「その態度をどうにかしたらと言ってるの! 大体、いつもいつも、何考えてるのかわかんないのよ、あなた。授業のときはほとんど居ないのに、こんな時だけは出てくるんだ。真面目に授業を受けもしないで、遊んでばっかりじゃない!」
爆発した。クラス内が静まり返る。クラスのメイド達の冷めた鋭い視線が、一斉に司を襲った。司も目を丸くした。うわ、そこまで言いますか。
もともと司は、一人で「好き勝手に行動」する人間だ。クラス内の派閥や仲良しごっこにはまったく興味を示さない。だから、理解のある者以外には単なる異端者にしか見えないのだろう。学級委員の目には先ほどの様子が、司が早紀に八つ当たりし、和を乱しているように映ったようだ。
険悪なムードが教室に充満していく。
「これ以上私がここに居たって、仕方ないね」
司は、非難を言い出した佐藤を睨み返しながら、教室から抜け出したのだった。
そうして、この保健室での現状に至る。
「司ちゃん、メイド服、しわになっちゃうよ?」
「葉月ちゃん、片付けといて」
「あぁ、もう、センセーを使うんじゃありません」
たしなめながらも、葉月はハンガーにメイド服を掛け始めた。彼女も、司の数少ない理解者の一人だ。初めに出会ったころは、理不尽に保健室の机やベッドを不法占拠する司を恐ろしく感じ、問題児と考えたこともあったが、表現が不器用なだけの少女だと気づくのにそう時間はかからなかった。
「葉月ちゃん」
葉月が衣装をハンガーに掛け終わった直後、突然司が机に突っ伏したまま口を開いた。
「なにかな?」
「......ありがと」
「どういたしまして」
ほら、ね。根はいい子なんだよね。くすりと葉月は笑って、ベッドに腰掛けた。視線の先には司の背中。
沈黙が支配する保健室に、突然ノックの音が響いた。
「はい、どうぞ」
葉月が入室を促す。入ってきたのは涼平だった。
「ちィーす、葉月センセ。うちのクラスの司、ここにお邪魔してないですか」
「いるわよ。ほら、司ちゃん、お迎え来たよ」
葉月が優しく呼びかけるも、司は突っ伏したまま動かない。
「あ、ココに居たね......って、うわ、まともに服ぐらい着てようよ!?」
目視で司の姿を確認して、涼平は思わず目を逸らした。ぶかぶかのシャツにハーフパンツというラフなスタイルに身を包んでいる司。無防備な襟元からはブラジャーの肩紐が覗いている。純粋な青少年には、ちょっと刺激が強すぎた。
「どんな格好してようと私の自由じゃないか。あんな物、着ていられないよ」
顔を伏せたままで司が抗議する。
「うん、もう、今日はメイド服を着なくていいから。ほら、制服着て、教室戻るよ」
「いや。今日はもう教室には行かないよ」
あぁ、これはかなり重症だ。大分不貞腐(ふてくさ)れてる。涼平は苦笑した。
「じゃぁ、放課後に生物工学室に来てもらえるかな?」
「やだ。城南キャンパスまで行きたくないし」
「最後まで話を聞いてよ。直人がコーヒー淹れる練習をするから、それに付き合って欲しいんだけど」
ぴくり。司の動きが一瞬止まる。涼平は確信した。よし、食いついた。
「あの......さ」
司が顔を上げながらおずおずと口を開き始める。
「淹れたコーヒー、飲めるよね」
涼平に向けられたその目は、期待に満ちていた。
「もちろんだよ。あと、早紀が当日に外注するケーキの試食するって言ってたよ」
満面の笑みで、涼平が応えた。がば、と、勢い良く司は跳ね起きた。
「今日は何時に終わる?」
「四時だよ」
「よし。ここで待ってるよ」
そう言い残して、司はそのまま奥のベッドに向かうと、布団にもぐりこんだ。
「司ちゃん、今日はもう授業出ないみたいだね」
葉月が困った顔をする。涼平も肩をすくめた。
「そのようですね。葉月センセ、司のことをよろしくお願いします」
「はいはい。りょーかい」
涼平が保健室を後にする頃には、少女はもう既に寝息を立て始めていた。
「あぁ、おいしかったー。直人も、腕上げてるじゃん」
早紀が幸せそうな顔を教壇の上の直人に向ける。
玖島高校のもう一つのキャンパス、通称城南キャンパスの一室。西日が校舎と室内を茜色に染め上げている。教壇の上には今日運び込まれたコーヒーの器具が広がり、さらにその周りにはケーキの包み紙やパンくずが散らかっていた。
「お粗末さまでした」
教壇の上に広げた仕事道具を片付けながら、直人がつぶやく。
「でも私は、直人がうちでやってるみたいに、布で淹れたやつのほうが好きだな」
「早紀、ネルドリップの味をペーパーで再現しようと思っても無理だ」
「えー」
「えー、じゃない」
駄々をこねる早紀。直人はひとつため息をついた。
「......ネル、持ってきてみるかな。俺も、実はちょっと物足りないし」
早紀の表情がぱぁっ、と明るくなる。
「ほんと? やった、また明日も練習だね」
「あぁ、そうだな。でも、後片付けが大変なんだよなぁ......」
やれやれ、と直人は肩を竦(すく)める。ふと、涼平と視線が合った。
「熱いねー。見せ付けるなよ、この色男ー」
涼平が茶化す。
「なんだと」
直人が適当に凄んで見せる。適当だからぜんぜん怖くない。
「きゃー、怖ーい」
そのノリに早紀がさらに乗った。いつもの風景。そんな微笑ましい光景を司は一人浮かない顔で眺めていた。
「ごめんね」
突然、早紀が司のほうを振り返った。
「何のことかな」
「あの、お昼にみんなでメイド服着てた時にさ、私、笑ってって無理言っちゃって。あの後、司が辛そうだったから」
申し訳なさそうにうなだれる早紀。司は目を伏せた。
「そんなことないさ。今はこうして甘いケーキも美味いコーヒーも飲めて、幸せだよ」
「幸せそうには見えないけどなぁ」
「とにかく、大丈夫だよ。ただ、当日、私は手伝わないからね」
早紀が目を見開く。
「え、それは困るよ。司、喫茶店のことをよくわかってるし。仕事だって、司になら何だって安心して任せられるもん」
司がかぶりを振る。
「でもね。私は教室に近づかないほうがスムーズに行くと思うんだ。佐藤たちともギスギスしないだろうし。私だって、早紀たちの役には立ちたいんだけどね......」
言いようのない思いが司の胸を支配する。これは自らの普段の態度の所為(せい)で、自業自得だというのは司本人が一番良く分かっている。好きに生きることの歪(ひず)みは、こういった所で現れるんだな。そう感じて、ため息しか出なかった。
重苦しい雰囲気が室内を埋め尽くす。窓の外まで、いつしか鈍い色で塗りつぶされている。
身も心も暗く覆いつくした重い空間は、しかし、乾いた照明スイッチの音がすぐにかき消した。はっ、と我に返った司たちが顔を上げると、いつ移動したのだろうか、涼平が教室の入り口で手招きをしていた。
「みんなに見せたいものがあるんだ。ちょっと屋上まで来て欲しいんだけれど?」
頭上には見事な満月が輝いている。
「そういえば、今日は十五夜だったな......」
直人が感心したように空を仰ぐ。日が落ちた後の屋上は、ちょっとした展望台のようだった。眼下には黄色や赤の色を載せた光の川が、緩やかなカーブを描いて玖城キャンパスと城南キャンパスの間を流れている。
「お、直人。いい所に気がついたね」
涼平の声にはウキウキとした色が乗っていた。
「ということで、用意してみました!」
じゃかじゃかじゃーん。口でドラムロールしながら涼平が屋上の端に掛けてあった布を取り去った。そこに現れたのは、ライトアップされた月見団子とススキ。
「すごいね。こんなの、いつの間に用意したのさ?」
「ふふふ、妖精さんが用意してくれたのさ」
司の疑問を涼平は真っ向からはぐらかした。妖精さんかぁ、と、早紀が楽しそうに繰り返す。
「おっと、コレだけで終わりだと思わないで欲しいな」
いたずら小僧のようにきらきらと目を輝かせて、涼平が言い放つ。
「まだ何か用意してるの!?」
早紀が身を乗り出す。
「さぁ、あちらをご覧ください!」
茶髪の少年は屋上の死角となっていた一角を指差した。三人はその指が向く方向をたどり、そして思わずあんぐりと口を開けた。
さっきまで、あんなのは居なかったはずだ。むしろ、あんなのは地球上の何処を探しても居ないはずだ。もし「じゃぁ、何処に居ると思いますか?」と訊かれたら、迷わず十人中十三人が――複数回答で――「月」と答えるだろう。それに、あんなふわふわのもこもこが二本脚で立ってること自体おかしい。
涼平が指し示したその場所では。
ウサギが餅を搗(つ)いていた。
「ちょ、ちょっと、あれを見てよ! うさぎが餅を搗いてる!」
「知ってるよ。僕が言ったんだから」
真っ先に叫んだ早紀に涼平がツッコミをいれる。
「おい、あのウサギを本部に報告だ!」
「直人、誰に向かって言ってるのかな?」
「ダンボールの中に待機しているジェームズにだ」
「......僕はスパイを友人に持った覚えはないよ」
はぁぁ、と深くため息をつく涼平。
「えっと、び、ビデオカメラ持ってきて! か、カメラでもデジカメでも、使い捨てでもいいから!」
「早紀のケータイはカメラ付きだったよね?」
あたふたと騒ぐ直人と早紀に怯えたのか、餅を搗いていたウサギは小刻みにあたりを窺(うかが)うと、物陰へと隠れていった。
「あ、騒ぐから逃げちゃったじゃないか」
涼平は三人のほうへと非難の目を向けた。
「よし、司。捕まえるのを手伝え。英語で言うとTETSUDAE!」
「それは英語じゃないよ、直人」
片言でテツダーエ、と発音した直人に、司が苦笑する。
「悪ィ、ちょっと混乱して基礎的な英語を忘れたみたいだ。だが、今ならドイツ語が!」
「Konnten Sie mir bitte erinen Gefallen tun?」
間髪いれずにすらすらと、聞きなれない発音で、司は直人に問いかけた。
「わりぃ、嘘ついた。というか、司。何で英語は赤点なのにドイツ語が出来るんだ?」
「興味のある事しか勉強してないからね」
司は肩を竦めておどけてみせた。
「涼平はあのウサギが珍しくないの? 直人でさえ珍しくこんなにあたふたしてるのに、涼平は最初からすごく落ち着いてるよね」
少し落ち着いて冷静になった早紀が、至極まっとうな疑問を涼平に投げかけた。何しろ、お調子者でムードメーカーの涼平だ。こんなに皆が騒いでいるときは、今のように冷静なツッコミを担当するより、一緒になってボケに回るようなキャラなのだから。
「だって、用意したの僕だよ? まぁ、あのウサギなら、いつでも見慣れているからさ」
その言葉に、時が止まった。
「キミ、そんなに苦労してるんだ。そんな悲しい幻がいつも見えてるなんて」
「失礼だね、僕はまだ正常だよ!」
目を逸らして制服の袖で涙を拭う仕草をする早紀に、涼平が吼(ほ)えた。
「涼平、どうしてもというなら止めないが、クスリはちょっと止めておいたほうが......」
直人がかわいそうな物を見るような目を涼平に向けた。
「僕はやってない!」
「やった子は皆そう言うんだよね......」
空に浮かぶ満月を仰いで、司までも乗った。
「だから違うって言ってるよね!?」
涼平の弁解はこの後五分にわたって繰り広げられた。
「つまり、あのウサギはうちの親父の研究所で造られた仔なんだ」
しばらくの後、混乱がある程度解けて落ち着きを取り戻した直人たちに、涼平はゆっくりと説明をはじめた。涼平の視線の先では、物陰から出てきたウサギが再び餅を搗いている。
「研究所?」
直人が団子をつまみながら訊く。
「うん。生物工学研究所とかいうところだよ。ほら、山のほうにいろんな企業が密集してる場所があるよね。その中に研究所も入ってるんだけど、そこにはいろんな研究室があって、動物医学に関することから、バイオテクノロジー、果ては遺伝子操作まで幅広く取り扱ってるみたいなんだ。で、あのウサギは親父の研究室で開発された新製品」
「噂には聞いたことがあったけど、その新製品がどうしてここにいるのさ?」
怪訝な顔で司が聞く。
「城南キャンパスってさ、農業系の学部が集まってるよね。ここの生物工学科と研究所が特別講義とかよくやるぐらいに仲良くて、記念にウサギを何羽か進呈したみたいなんだ。違った環境下での成長具合をデータを取って調べる、って言う名目で」
「ふーん......」
早紀は友人に向けていた眼をウサギのほうへと移した。つられて全員が視線を移す。
なんて幻想的なんだろう。黄色い月が投げかける蒼白い光に照らされた屋上。満月の真下でぺたんぺたんと餅を搗くウサギの様子は、とても不思議で侵(おか)し難(がた)い雰囲気を醸(かも)し出していた。それはもう、一種の芸術とさえ言えた。
「こんな話を、知っているかな」
突然、涼平の声が静寂を破った。
「インドに伝わる神話の中に、月のウサギの話がある――」
――昔、インドの山奥に、ウサギとキツネとサルがいた。この三匹は共に仲良く暮らしながら、誰かの役に立つことができる機会をいつも探していた。というのも、「私たちは前世の行いが悪かったため、今ではこんな獣の姿になっているのだ。せめて今からでも世のため人のために良いことをして、何かの役にたとうではないか」と考えていたからだ。
そのことを知った神様が、一人のよぼよぼの老人のふりをして、三匹の獣の会いに行った。獣たちはこの老人のお世話を心を込めてすることで、善行ができると張り切った。サルは木に登って、木の実や果物を集めて持ってくる。キツネは狩をして、魚介類を採ってくる。ところがウサギには、これといって特技がなかった。
これでは自分は、老人になにもしてあげることができない。思いあまったウサギは、老人に焚き火をしてもらった。不思議がる老人と仲間の前で、ウサギはこう言った。「私は何も持ってくることができないので、せめて私の身を焼いて、私の肉を召し上がって下さい」と。そうして自ら火の中に飛びこんで黒こげになってしまった。
これを見た老人は、たちまち神様の姿に戻って、三匹の獣に語りかけた。「お前たち三匹は、とても感心なものたちだ。きっとこの次に生まれ変わってきた時には、立派な人間として生まれてこれるようにしてやろう。特にウサギの心がけは立派なものだ。お前の黒こげの姿は、永久に月の中に置いてやることにしよう」と――
「――こうして、月の表面には、黒くこげたうさぎの姿が残されることになったとさ。おしまい」
話が終わる頃には、夜風が冷たく感じられるようになっていた。早紀も直人も、涼平は司に語りかけているのだと、途中から気づいていた。司は唇を噛み締めて、俯いている。
「今の話が僕らと何か関係あるのか、って言うのは、それは特に無いんだけどもさ。ただ、僕らは誰もが、自分の出来る事や得意な事を、どうにかして何かの役に立たせられるんだと思うよ。その、どうにかするって所を上手く見定めきれたなら、どんな事でもばっちり誰かの役に立てると思うんだ」
諭すように、優しく語り掛けるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ続ける涼平。直人は彼が彼たる理由がなんとなく分かった気がした。涼平は結局のところ、一番現場のことを見て、知って、よく考えているのだ。ムードメーカーとして、イベントの仕切り役として、涼平は実にいろいろな計算の上で道化を演じているのだ。やっぱり、こいつには敵(かな)わないな。直人は苦笑した。
「さて、しんみりしたお話はおしまい」
パンパン、と涼平が手を叩く。司が顔を上げると、涼平の笑顔がそれを迎えた。あの、わくわくときらきらとが入り混じった、いたずら小僧のような笑顔が。
「ねぇ、司って、メイド服着たくなかったんだよね? ちょっと僕にいいアイディアがあるんだけど、ちょっと話だけでも聞いてくれないかな。きっと、気に入ってくれると思うよ」
後日。
二日間行なわれた文化祭では、早紀たちのメイド喫茶が一番の売り上げと成功を収めた。成功を収めた勝因として、手間を惜しまず丹精込めて淹れたネルドリップのコーヒーの味や、甘すぎもせず物足りなくもないケーキのチョイス、流行を押さえたメイド姿のウェイトレスの起用などが挙げられるが、さらに当日突然現れた執事姿の女性についても特記しておくべきだろう。男装の麗人として、女性陣だけでなく男性陣をも虜にした彼女は、営業中一切笑わず、てきぱきと仕事をこなしていた。その仕事振りが見る者の目に凛々しく映ったのだろう。彼女は多くのファンを獲得した。これはさらに後日談になるのだが、彼女の出没するポイントには下級生のファンが集まるようになったという。
しかし、当の彼女はその後も授業を抜け出していた。
好きに生きる、と掲げた彼女の生き方は、これからも変わらない。




